老後ミニマリストの”生きる”可能性は無限大。

こんにちは。餅味噌教授です。

ある日、お義父さんが倒れました。

脳出血でした。

そして、心筋梗塞で再び倒れたのです。

幸いにも命に別状はありませんでした。

幸いにも。

これから始まる、ほとんど寝たきりの生活…

この話は、現実離れした話でしょうか。いえ。私も含めて誰しもに起き得る話。

さて、”生きる”とはどういうことなのでしょうか。

心臓が動く = 生きる ?

身近な人の生命が危ない。そういう時に、”命の大事さ。命の尊さ。”について考える機会が訪れます。

私にとっても、その機会が、今回起きた出来事でした。

現代医療は、間違いなく発展の一途をたどっており、人間は長く生きる時代になっています。

逆に言えば、”なかなか死ねない時代”になっていると言ってもいいと思います。

老衰の場合は、一度心臓が止まっても、薬によって再び心臓を動かすことができると聞いたことがあります。

心臓が動いています = 生きています

私は、その現実を否定するつもりはありません。

しかし、もし、自分がそのような状態になった時。「生きたい」と思うのか、と考えてみると、自分の答えは明白になるのです。

「生きているということを感じて生きていきたい」

感じることが出来なくなったら、生きていきたくないと思うのです。

生きているということを感じるとは、どういうことでしょう。

大金を手にして成功を収めることでしょうか。

愛する人と出会い、家族を作ることでしょうか。

好きなことをハツラツと実行することでしょうか。

ほとんど寝たきりになってしまったお義父さんは、もう、生きていないのと同じなのでしょうか。

”生きる”を感じる

子供の頃、「今何やってんのー」と友達に聞くと、

「息して、心臓を動かしてんの」と返答されたことがあります。

私も「僕も息して、心臓動かしてんの」と言ってふざけ合った時、

今、息をしていることの不思議、心臓や肺が動いていることの不思議を実感したことがあります。

もしかしたら、これが”生きる”を感じることなのかもしれません。

”今を感じること。”

これは、なかなか難しいことだと思います。

意識をしなければ、過去や未来に思いを巡らし、今を感じることが出来なくなります。

ほとんど寝たきりになったお義父さんは言いました。

「俺は会社勤めも頑張ったし、海外に出張にも行った。我が人生に悔いなし。」

お義父さんは、おそらく”今”を諦め、”過去”にすがり生きているのでしょう。

”誰か”よりも頑張って、”誰か”よりも良い生活、成功を納めた人生は、”誰か”よりもより良い人生だったのだ。と。

そう言って、「こうやれ」「ああやれ」とワガママを言うお義父さんを見て、私は背筋が凍る思いがしました。

お義父さんの介護をする立場の人はどう感じただろうか。

もしかしたら、悔いがないんだったら、早く旅立って欲しいと思ったかもしれない。

これが、介護の現実なのかもしれない。と思い知らされた出来事だった。

自分はどう生きるのか。

おそらく、お義父さんは、これから変わることは難しいだろうと思います。

それでも少しでも「好きだ」と思えることをして生きていくだろうとも思います。

それはそれで、良いのだと思うのです。

人間は、いつもその時に最良の選択をしていると思うからです。

少しでも体に負担なく、安全で、気持ちの良い方向へ本能が導くはずですから。

おそらくそれは、私が考える”生きていることを感じること”ではなく、”心臓を動かしている”ことに近い気がしています。

そういう人生が見えてくる中で、自分はどうしたら良いのだろうかと考えます。

もちろん、実際に、その状況にならなければ分かりません。

積み重ねや多数の人生経験で、さらにゴチャゴチャする老後。

その時こそ、ミニマリストの考え方が活きてくる気がしてならないのです。

シンプルに生きることを意識する。

もしも、私が寝たきりになった時は、

「今、息をして、心臓を動かして、大事な人を笑わせようとしてるんだ」と

大事な人のために人生を捧げようと思うのです。