餅と味噌汁の哲学

こんにちは。mochiです。misoshiruと共に共著しています。

まず、私が取り組まなければならない第一の課題は、”餅と味噌汁の哲学である” ということに考えが行き着くには、想像に難くない。

それは、このブログのタイトルであるから、という最も的確な理由が挙げられるからである。

しかし、”餅”と”味噌汁”というのは我々が何の気なしに列挙した好きなものであるため、この二つの関係性を考察するには、かなり難航するものと思われる。

さらに、”倫理学” と銘打ったものの、我々の知識では到底、意味すらも分かっていない。

まさに”雰囲気”というやつである。

この”雰囲気”というもので作成されたものが、人に”面白い”と感じられるかどうか、というのは、かなり実験的であって、自分自身、作成していて、かなり恐怖を感じざるを得ない(読み手のあなたにもそれが伝わっているはずであるが…)。

しかし、哲学すること、これは貫き通したいのだ。しばし、付き合って頂ければ幸いに思う。

まず、自己紹介とはならないが、”餅”と”味噌汁”を考えてみたいと思う。

そもそも、餅とは何かと定義する。

餅とは日本古来の食べ物である。

うるち米を蒸してから潰し、スライム状(?)にした、美味しいものである(この辺からすでに怪しいが…)。

なぜ私が餅に思いを寄せるか、というと、美味しいのは、もちろん(…餅だけに)なのだが、”ことわざ”が多いことにある。

餅は餅屋。

絵に描いた餅。

もとい、そんなに多くないが、私の使用する頻度が多いことにある。

そのことから、餅に親近感が湧いたのだ。餅に関することには、できる限り良いことが起きてほしいと思うようになった。年末には、お年寄りが餅を喉に詰まらせないようにして欲しいと願う日々が始まったのである。

早々に、餅の話が行き詰まったところで、味噌汁に話を移したい。

”味噌汁は、宇宙である”

これは、料理家 土井善晴先生の言葉だ。

土井善晴先生は、料理家 土井勝先生の息子さんであり、一汁一菜を提唱する、料理の哲学者だ。

これは激しく同調したい意見であり、我々が実践している提唱の一つだ。

(話はそれるが、土井勝先生がつくる太巻きのご飯の量の多さは、宇宙を感じるほどだと記憶している。)

それはさて置き、”味噌汁”が”宇宙”である。とは、どういうことか。

これは、味噌汁の懐の深さ、つまりは、許容範囲の大きさを表したものである。

味噌汁の”具”は何を入れれば良い、という定義はなされていない。例えば、味噌汁にコーンスープを入れるという愚行さえも許されるのだ(義母により実行された事実である)。それは、美味しさと暖かさに溢れた”味噌汁”であった(これを味噌汁と呼ぶかは曖昧ではあるが、味噌汁であった)。

まさに、味噌汁は宇宙なのである。

ここで、餅の話に立ち戻ってみたい。

餅に懐の深さはないのだろうか。いや、かなりの懐の持ち主(……餅だけに)だ。

例を挙げよう。

餅といえば、どう食べるか、というと自由なのである。甘くしても良し。しょっぱくしても良し。

うるち米をスライム状(?)に…という定義付けも、少し怪しいものである。

米の粒が見えていたら、餅とは呼べないのか。そうではないだろう。北海道ではじゃがいもを潰して、芋餅というものもある。

一見すると関係のない”餅”と”味噌汁”。これらの共通点が見えてきたように思える。

以上の観点から、”餅”も”味噌汁”も、定義の曖昧さ、懐の深さでは、共通すると言える。

土井先生の言葉を借りれば、”餅と味噌汁は宇宙なのである。”ということが成り立つ。

餅と味噌汁の倫理学。

これはまさに、世の中の曖昧さ、世の中の許容の深さ、を考えることなのである。

”答え”を求めない、”考え”を記す学問(ブログ)を始めていきたいと思います。