「ぼく習」から考える。”才能”とは…?

こんにちは。mochiです。

「ぼくたちは習慣で、できている。」が、発売し1ヶ月が経ちました。

この本を読んで、私と妻に少しづつ変化が起きています。

なんと、妻が朝4時に起き、ウォーキングを続けています!!

びっくりです。

以前も「歩く!」とは断言していたものの、「今日は雨だから」とか「今日は晴れすぎているから」とか、歩いていたのかいないのか、という状態でしたが…

今は毎日歩いています!!!

理由を聞いてみると、ハードルを下げたから とのこと。「ぼく習」をお読みの方はピンときたかもしれません。そうです。「歩くことを続けよう!」というのではなく、

朝、起きて、靴を履こう!」ということにしたそうです(ぼく習に例として書いてました)。

そしたら、嫌だなーとか考える間も無く、歩きに行くそうです。雨の日も。

方や私はというと、「ぼく習」に感化されて何かをやるのかと思いきや…ブログの更新すらままならないという状況…。どうしても、色々と考えてしまうのです。

佐々木典士さんが、もし、このブログを見たらどう思うのか。とか

そもそも、このブログを読んでくれる人がいるのか。とか

果たして私にブログを書く才能があるのか。とか…

 

私が、「ぼく習」で考えさせられた場所は、その、”才能”について。

 

佐々木さんは才能について、”先天的に与えられた能力”という定義を否定しています。

これが非常に納得のいくものだったのです。

では、才能とはなんなのか。誰しも、続けることで能力は開花する。しかし、そのスピードは違う。すぐにうまくなる人もいれば、ゆっくりうまくなる人もいる。要するに、誰しもが、時間に差はあれど、能力は開花する、”才能”がある、ということになります。

ドラマや映画で、「私には才能がなかったのよ!」と言って、音楽家や絵描きの道から離れていくエピソードがあります。現実にもそういうことってありますよね。本当はやりたかったことだけれども諦めるという、「ああ、しょうがないよね」と多くの人が共感する場面です。

”続けることで能力を獲得すること” イコール ”才能”であるとするならば、「才能がない」という言葉は不自然に感じます。誰しもが、”続けること”は出来ますもんね。

しかし、続けることにもコツはありそうです。

佐々木さんは、”報酬”についても触れております。

人間は、目の前の報酬になびいてしまう。遠くの報酬にはあまり関心を持たない。

これも非常に納得のいくものでした。

その報酬を、例えば、”お金”にした場合、ブログを書いて”お金”という報酬を得たいのに、得られないという葛藤が続くと、どうだろう。”遠い将来の期待”はあるが、”目の前の報酬”がない状態。続けるには、無理がありそうですね。だから、外的な報酬(お金など)よりも、内的な報酬(自己満足など。本では自己肯定感と書いていました)、つまりは、確実にもらえる報酬が必要そうです。

では、私は自己肯定感を持ってブログを書くことができるのだろうか…そうやって悩んでいるうちに、ブログを書くということから遠のいていました。

自分を見つめ直すと、実は私は、ブログでお金を稼げたらいいなと思っているのだとわかりました。もちろん、書くことは楽しいということもありますが、やはり、「書きたい」と思うときだけに、その欲求を満たす為に書く。そうやって、いかないと続かないのでしょうか。

…こうやって、ごちゃごちゃ考えている暇があったら、書いてみたらいいんじゃないか。

そう思って、ごちゃごちゃのままブログを更新することにしました。

多分、佐々木さんの「ぼく習」も、妻もそう言っています。

何はともあれ、また新たな一歩を踏み出したような気がしています。